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名古屋の歴史と文化を 訪ねる旅

桶狭間合戦への前哨戦 ─動乱が続いていた尾張と織田信長─

名古屋の歴史と文化を 訪ねる旅①

■隣国・駿河の今川義元が勢力拡大し家臣は内通

現在の清洲城
尾張国春日井郡清須(現在の愛知県清須市)。信長はここから桶狭間に向かって出陣した。尾張の中心部に位置し交通の要所として重視されていた地。

 信長が大和守家と伊勢守家を滅ぼしたからといって、信長が尾張一国を平定できたわけではない。駿河の今川義元の勢力が、三河を制圧した勢いに乗じて、徐々に尾張まで浸透してきていたからである。
「海道一の弓取り」として武名を轟かせていた今川義元は、すでに信長が家督を継いだころから、愛知郡にまで触手を伸ばし、鳴海(なるみ)城の山口教継(のりつぐ)を味方につけていた。一説に山口教継は、信長の父信秀の在世中から今川義元に通じていたともいう。

山口教継ゆかりの笠寺観音
別名・笠覆寺。山口教継は付近の土豪で貢献した文書も遺る。(名古屋市南区笠寺町上新町)

 そうだとしたならば、信長の家督相続を機に、公然と反旗を翻したということになる。山口教継は、笠寺(かさでら)に砦を築くと、今川氏の家臣、葛山長嘉(かづらやまながよし)・岡部元信・三浦義就(よしなり)・飯尾乗連(いのおのりつら)らの軍勢を鳴海城に引き入れた。そして、子の教吉(のりよし)を鳴海城におくと、自らは中村に築いた砦を固めたのである。天文21年、那古野城を居城としていた信長は山口教継を討つべく出陣し、鳴海城下で行われた赤塚の戦いで山口教継を追い詰めた。

 

鳴海・大高城の奪還失敗信長は窮地に立たされる

 しかし、鳴海城を落とすことはできず、逆に、教継が大高(おおだか)城主・水野忠氏(ただうじ)を降して味方にしたことで、信長は窮地に立たされることになる。

尾州大高城図
当時は城北がすぐ伊勢湾になっており両軍にとって要衝だった。現在は「城跡公園」として整備されている。(名古屋市緑区大高町)

 鳴海城や大高城が今川方となるなか、沓掛(くつかけ)城の近藤景春や戸部城の戸部新左衛門も、今川方に寝返ってしまったのである。こうして、尾張のなかでも、愛知郡から知多郡にかけては、今川義元の勢力が点在するようになった。天文23年正月、駿河の今川義元が尾張に侵攻し、織田信長に従っていた水野信元を尾張緒川(おがわ)城に攻め始めた。このころ信長は、美濃(みの)の斎藤道三と同盟を結び、ともに今川と対峙していた。そこで信長は、居城の那古野城を斎藤方の軍勢に守ってもらおうとしたのである。
 こうして、岳父(がくふ)の斎藤道三から支援を受けた信長は、熱田から知多半島西岸に渡海(とかい)すると、今川方が尾張侵攻の前線基地として築いていた村木砦を落としたのである。これにより、いったん、今川方は退陣した。
 今川方の侵入を阻んだ信長は、逆に謀略を仕掛け、鳴海城の山口教継や戸部城の戸部新左衛門が織田方にも通じているという嘘の情報を流したという。結果的に、山口教継と戸部新左衛門は、義元の命によって殺されたと伝わっている。

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小和田泰経おわだ やすつね

大河ドラマ『麒麟がくる』では資料提供を担当。主な著書・監修書に『鬼を切る日本の名刀』(エイムック)、『タテ割り日本史〈5〉戦争の日本史』(講談社)、『図解日本の城・城合戦』(西東社)、『天空の城を行く』(平凡社新書)など多数ある。

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